御祭神と御由緒

ご祭神市杵島比賣命[いちきしまひめのみこと]

御利益

食物を養い子孫を恵み家内安全、技芸、学業、事業大成、雄弁と知恵、財徳

いちきしまひめのみことって誰?

イチキシマヒメは、日本神話に登場する女神様で水の神様です。
アマテラスがスサノオの剣を噛んで吹き出した霧から生まれたとされる三女神の三女です。
当社の社紋も水の神様にちなんだ波に三つ鱗紋です。

現在の洲﨑神社社殿
現在の社殿の様子 東西線木場駅より徒歩2分の距離

御由緒洲﨑神社の歴史

洲崎弁天社から洲﨑神社へ

江戸っ子から弁天様と親しまれていた江戸時代の当社

当社は元弁天社と称し、厳島神社の御分霊祭神市杵島比売命を斎祀しております。
創立は徳川五代将軍綱吉公の生母桂昌院の守神として崇敬するところとなり、元禄十三年江戸城中紅葉山より、此の地に遷して宮居を建立してより代々徳川家の守護神となっておりました。
当時は海岸にして絶景、殊に弥生の潮時には城下の貴賤袖を連ねて真砂の蛤を捜り、楼船を浮かべて、妓婦の絃歌に興を催すとあり、文人墨客杖を引くという絶佳な所であったと伝えられており、浮弁天の名の如く海中の島に祀られてありました。

昭和四十三年以前の洲﨑神社社殿
昭和30年代の社殿

社殿の創建には深川海面築地普請奉行の深津八郎右衛門があたったといわれ、以来当社は江戸の観光名所として栄え、明治維新神仏分離の際、洲崎弁天社改め洲﨑神社となりました。 明治五年御由緒により村社に列せられ世間より崇敬厚く、大正の震災、昭和の戦災に社殿は焼失しましたが、弘法大師作の御神体は幸いにして難を免れました。当時は仮社殿に奉斎して居りましたが、昭和四十三年に現在の社殿を造営し斎祀して現在に至っております。

戦後の例大祭。お祭り好きの江戸っ子は昔から変わらない。
戦後の例大祭 深川っ子の笑顔がまぶしい

玉の輿桂昌院とたまちゃん

徳川綱吉公の生母桂昌院

徳川幕府五代将軍・徳川綱吉公の生母桂昌院「幼名お玉」は、京の八百屋に生まれ、武士・本庄家の養女に、そこから公家出身の尼僧の侍女として奉公することになります。そんな中、尼僧は将軍家に挨拶するため江戸城の将軍・家光を訪ねることになります。ここで、家光が尼僧に一目惚れしてしまいます。尼僧はそのまま家光の側室「お万の方」として大奥に入り、お玉も大奥で暮らすことになりました。さらに、お玉も成人すると家光に見初められて側室になり家光の子、後の五代将軍・徳川綱吉を産みます。八百屋の娘から武士の養女、公家出身の尼僧の侍女へ、そして将軍の側室にまで上り、五代将軍・徳川綱吉の生母と立身出世したのは運が良い女性というだけでなく、聡明で魅力的な女性だったからではないでしょうか。このような事から桂昌院が「玉の輿」の語源・代名詞となったことが頷けます。

玉の輿の語源・由来

「玉」は美しいものの総称で、古くは宝石等を意味しました。
「輿」は貴人を乗せて運ぶ乗り物であり、そこから貴人の乗る美しい立派な輿を「玉の輿」と言うようになりました。
また、桂昌院の名前と出世した経緯から由来するといった説もあります。

玉の輿たまちゃん

玉の輿たまちゃんは、令和元年例大祭に併せて境内にマスコット像を設置、当社の創建と深くつながりのある桂昌院の名前と出世した経緯から誕生した、当社オリジナルキャラクターです。
持っている人参は、桂昌院が八百屋の娘であった事と五穀豊穣にちなみ、チラリとのぞく可愛らしいキバは木場と掛けています。社紋のアクセサリーがおしゃれです。

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